根強い「出る杭は打たれる」
なるほど、まだまだ、日本は男尊女卑であり、出る杭は打たれる、という風習が根強いですね。
大学で「授業中、ドンドンと質問してください。また、こちらからも聞きますから、ドンドンと答えてください。さらに他の人の意見にさらに発言しても構いません。議論に発展してもよいです。これらを平常点としてつけますから」と先生が授業の一番最初の日におっしゃった、と。
そこで、彼女は、一番最初の質問に答えた。ほかに誰も答えなかったから。
次も答えた。ほかに誰も答えなかったから。
で、他の人が先生に「質問」した。
そこに彼女も「では、こういう場合は?」とさらに質問した。
こういう日々だったらしい。
だが、最近では、先生は、彼女が「あ、先生、いいですか」と手を挙げたり、
先生のところに質問に行くと、ため息をつかれる、という。
また、他の人はどうしてなにも言わないのか、平常点がつけられるのに、と不思議がっているが、
中には、彼女のことを「先生にすぐにつっこむ人」という表現をした人がいるらしい。
彼女はつっこんで、先生を槍玉にあげようと思っているのでもないし、
先生に反論しているのでもなく、単に質問に答えるか、「質問はありませんか」に積極的に質問をしている、という。
それも、いろいろと調べてから行くので、他の人にしてみれば、かなり難しいらしく、
また、先生もあまりつっこまれると、えぇっと、と十分に答えられる存在ではないらしいので
彼女の存在が疎ましいらしい、と感じる、という。
授業の最初に先生のほうから断りを入れたにも係らず。
「こういう場合、日本って、ああは言われても、黙っているほうが賢いんですね。
せいぜい1回くらい質問するほうが、かわいらしい、んですね。」と。
アメリカなら議論白熱で、日本人は黙っていて注意されるが、
まだまだ日本ではそうはいかない。
ゼミか、討論会か、正式に議論できる場であるようなときならともかく、
日本ではまだまだ難しいようだ。
クローン、生命倫理と神
陽光文明国際会議など、国際的な取り組みの中で、産経新聞でインタビューを受けた、東京大学教授島薗進氏の言葉だ。これまで、おもにキリスト教がストッパー役を果たしてきた。 ………島薗教授によると、現在、世界で合意しているのは『クローン人間を造ってはいけない』ことまでで、初期の段階の生命や万能細胞の利用についての合意はない。欧米の一部などでは代理母や卵子の取引、さらに臓器売買すら認めて良いとの議論もある
確かに、キリスト教がストッパーの役目を果たしていた時期もあったのだろうが、キリスト教国であるイギリス(聖公会)でさえ、クローン羊の誕生させた。また、1990年に「ヒトの受精と胚研究に関する法律」が成立がしている。
キリスト教国が率先して法律化さえしている傾向だ。
しかし、クローン、ヒト細胞だけではないだろう。
元来、医療とは延命処置であり、生かしてあげたいという行為を医師が行う。
人間の手が科学という技術によってどこまで介入していくものか。
極端に考えれば、治療さえ、神の意思に背くことになるのだろうか。
臓器移植によって延命が可能になる。
神がその人に生まれるときにすでに与えたものを、人間の手によって変えている。
そう考えると、すべての医療行為は神に背く行為とも取れる。
人間が生きているこの時代だけがすべてと思うから延命行為があるのだろうが、死後も同じ魂は生き続け、体は肉の物質がなくなるだけである、というのは私の考えだが、死ぬのが怖い、だからしがみつく、ということになれば、延命治療にすがりつくのもわからないでもない。
ましてや、通りすがりの人に殺されたり、或いは助かったとしても障害者になった場合は、これでなにを私たちは神から受けているのだろう、と疑問に思うことだろう。
プロジェリアという難病のアーシュリーは、その病気を「神からの贈り物なのよ。だからきっと、いいこと、なのよ」と言う。難病さえも、このように受取ることができるのは、幼い頃から家族中が神を信仰する生活であったからだろう。そういう意味では、キリスト教に限らず、なにか宗教を持っていて幼い頃から家族中で祈ることがあれば、アーシュリーのように考えることができるのだろう。
アメリカなど外国の映画を日本人は、やはり客観的に観ているのだろうが、日本人が同じ立場にたてば、「神に祈る」「神よ、」という言葉は日々の暮らしの中で自然に出てこない人が多いだろう。
話を戻すが、この、クローンにしても、延命治療にしても、環境危機の問題にしても、神がそうなっていくのを観ているのかもしれない、などと思うことがある。
自然を守るために、といって人間の手がそこに入るわけだが、それ自体がもう自然ではなくなる、という声も大きい。
人間になにかを気がつかせるために、大なり小なり艱難を与えているのではないか、などと思う。
地球が滅びるとしても、それが地球の歴史なのかもしれない。
このままでは人類が絶滅する、、といっても、恐竜など絶滅する時代というものを地球の歴史は刻み込んできたのだ。
人類がもし絶滅しても、また別の生物が現れ、何百億年経ったとき、また人類に似た生物がこの地球に現れているのかもしれない。
地球の歴史を考えれば、人類が地球に存在している年月は小さな歴史だ。
さらに宇宙という歴史をも考えれば、地球の歴史はまだ新しい。
何十億年という時間は想像もつかないが、このような方面から考えてみれば、すべてはなすべきことがなされているのかもしれない。
アウグスティヌス『告白』1-6〜1-7
神を信じるのは、知識によって理解したものではない。知ったから神を信じる、というものではない。神は信仰によってのみ見出しえる。信じるものは知識を持たなくても神を見出している。それは1-1-1に書いたように、わたしの信仰は、あなたがわたしに与えられたものであり……なのである。そしてそれに気がついて神を信じられるようになったとき、それは知識によって神を知ったのではないことを知るだろう。1-6
あなたを見出さずにあなたを見出すことをむしろ欲すべきである。
乳児は、お腹が空いたといっては泣き、親の温かさや笑顔がほしいといってはむずがる。1-7
しかし、このようなこともやさしくゆるされるのであるが、それは罪でhないからでもなく、小さい罪であるからでもなく、年齢の進むとともになくなるからである。このことは、同じ罪がだれか成人に認められるとき、平気で見すごされないのであるから、明らかである。
大人が同じことをすれば非難されるが、乳児にそれがなされず笑って済ますことができるのは、社会的実害を被る事が少ないゆえであり、乳児の意思そのものが罪がないことではない。
アウグスティヌスは乳幼児時代の自分を事細かに覚えていたのではなく、観察によって乳幼児たるものを知ったが、鋭い観察力である。
この乳幼児の罪ならない罪とは、原罪をさしている。
アウグスティヌス『告白』1-5-5〜1-5-6
神を信じる者は皆、こういう気持ちになるだろう。はっきりと聞こえる声で言ってほしい、と。それを聞きたくて祈る。不幸と思われる時もそれを希う。しかし、はっきりとは聞こえない。神はいつも人がわかるような言葉で発するとは限らないからだ。「わたしはおまえの救いであると、わたしの魂に言ってください」。わたしに聞こえるように、言ってください。
神に告白すれば罪は清められるが、かといって、自分の罪を、他人の罪をどうしてほしい、ということは人からは言えない。神はすべてを知っておられる全知全能のお方。”その人”にとって”よい時期”に罪を告白するような気持ちにさせてくださり、また赦して下さるのだから。それがいつであろうと、だれそれであろうと、審判することは人ではなく神がお決めになられることなのだから、人が裁いたり審判してはならない。「主よ、わたしのかくれた罪からわたしを清め、他人の罪からあなたのしもべを守ってください」と。
わたしは審判を真理であられる「あなたと争わない」。
しかし、日本の裁判制度でキリスト者とはいえ判断しなければならない。すべては神と本人のみが知ることなのだが。







